会員のエッセイ

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 手作り年賀状

F0015

横山正人
 音声コミュニケーション F0015 横山正人
 旧長崎水族館 F0015 横山正人
 シニアネット長崎 F0015 横山正人
 ホタルから環境問題を F0015 横山正人
 電子投票はじまる F0015 横山正人
 地域情報インフラ F0015 横山正人
 外来語の乱用 F0015 横山正人
 ITと高齢者支援 F0015 横山正人
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No.9  ITと高齢者支援 F0015 横山正人

 わが国もいよいよ高齢化社会に入ってきたようだ。本県長崎も、5人に1人が65歳以上と、高齢化比率の高い地域の一つになってきた。そんな中、独居老人をはじめとする高齢者支援にインターネットなどのIT(情報技術)を活用しようという機運が高まりつつある。各地方自治体も地域の高齢者支援事業として、遠隔医療支援情報システムや介護福祉支援情報システムなど様々な事業展開を構想あるいは実施に移す時代に入ってきた。関連企業もITを用いた高齢者支援のための各種情報システムを積極的に開発するようになり、電気ポットの使用状況を遠隔地からインターネットを使って確認することで、遠く離れた子供達が年老いた親の安否をそっと見守ろうといったものまで商品化される時代になってきた。今はまだ実証実験的な試みが多いが、いずれ様々な支援情報システムが、生活の場面に出現してくることだろう。

しかし、技術的には無限の可能性を秘めているITを活用した高齢者支援も、高齢者にとっての操作性の向上や機器への拒絶感の解消など、まだまだ多くの解決すべき課題が残されている。私も関わりを持つ一人として常々危惧するのは、ITという強力な武器を前にして、ややもするとサービス提供側が技術優先型となり、本来の高齢者支援という真の目的を見失い、一方的な支援情報システムの提供に留まってしまうのではないかという点である。高齢者にとって、真に必要性の高いもの、使ってもらえるものでなくては意味がない。技術に依存し過ぎた「押し付け」の支援では、かえってプライドを損ねることにもなり、拒絶感を与えてしまうような気がしてならない。まずは、人と人との「さりげない支援」こそが重要な気がする。ITの活用は、あくまで道具の一つであることを忘れてはならないだろう。そして何よりも高齢者自身が社会参加の意欲を失わず、いつまでも社会の重要な一員であるという自覚を持ち続けられるような仕組づくりこそが、最大の高齢者支援になるのではないだろうか。

(長崎新聞「うず潮」10月掲載より)

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No.8  外来語の乱用 F0015 横山正人

  「アカウンタビリティ−」、「スキーム」、皆さんは夫々の意味をご理解できるだろうか。最近、官公庁の白書などにもよく出てくる「説明責任」、「計画・枠組み」といった意味合いの言葉である。近頃このような外来語が世の中に氾濫し過ぎてはいないだろうか。日本語で十分なものまで外来語表現することさえある。利便性やわかり易さを通り越し、安易な格好づけや権威づけとも思えるカナ文字の外来語表現が多々見受けられる。視聴者にわかりやすい説明をすべきマスコミや政治家の中にも、やたらと外来語表現を連発される方がいる。時々不快感さえ覚える。文部科学省も伝統的な美しい日本語を維持するため、一般的になじみの薄い外来語の使用について検討を始めた。基本的に大賛成である。国際化が進行する中、外国の新しい概念を導入するため、日本語で表現することが困難な場合には、学術用語、専門用語として利用することはいたしかたないが、一般の国民や視聴者を対象とした場合は、過度の利用は利益を損なうだけである。特に若者から高齢者まで幅広い層に理解を要する公的な場面においては、適切な情報表現手段として日本語をもっと大事にしてもらいたいものである。

先日、長崎市で情報化社会に関する講演をした際、あるご老人からこんな質問を受けた。「パソコンの勉強を始めたけれど、解説書などを見てもわけのわからないカタカナばかりでついていけない。何か辞典のようなものはないだろうか。」考えてみると取扱い説明書や市販の解説書もカナ表記の用語だらけである。専門家には当たり前の外来語もこれではパソコンを触ってみようという意欲が喪失してしまう。情報格差を無くすためにも、もっと万人に理解してもらえる日本語表現が必要ではないだろうか。情報化社会といわれる今日、パソコンやインターネットなどの操作技術に習熟するだけでなく、伝えたい情報を如何に適切に表現するか、これこそが情報化の基本ではないだろうか。今まさに美しい日本語と国語力が問われる時代といえよう。

(長崎新聞「うず潮」9月掲載より)

 

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No.7   地域情報インフラ F0015 横山正人

一般家庭にも日常的な道具として浸透してきたインターネットも、電話回線接続からISDNへ、そして今やADSL、ケーブルインターネットなど次第にブロードバンド時代にふさわしい接続方法が提供されるようになってきた。家庭まで光ファイバーで接続できるBフレッツなどのサービスも低料金で始まっている。おかげで画像の多いホームページをみる人もそれほどイライラすることなく閲覧が可能になってきた。3,4年前を考えると凄まじい技術進歩である。

 しかし、こんな話もまだまだ都市部だけの話である。今話題のADSLも1.5bpsから8Mbps 、12Mbpsと次第に高速化されようとしているが、本県長崎でも長崎市やごく一部の市町村だけがその恩恵を受けているだけである。長崎市から一歩外へ出るとまだまだISDN程度である。この経済不況の中、通信業者の経済原理からすると、需要の多い都市部から整備するのもやむを得ないことだが、ネットワークの高速化が着々と都市部で進展する一方、サービスエリアがいっこうに拡大していかないことにより、ますます地域情報格差が広がっている。長与町の「にんじんネット」ように、地域ボランティアによる高速無線LANを用いた地域情報インフラを整備しているところもあるが、大半はブロードバンドと関係ない世界ということになる。 現在の状況を見ていると、簡単にこの地域格差は埋まりそうにもない。

 政府は、e―Japan重点計画に基づき、電子自治体の構築や学校インターネット推進に向けて動きつつあるが、地域情報インフラの現状を見るにつけ、現実味が乏しい気がしてならない。情報システムや情報コンテンツが整備されても、情報が流れる道路が整備されなくては何にもならない。一般道路や新幹線の整備は一生懸命になるが、21世紀の重要な課題である情報インフラについては、なぜか民間依存が強すぎるような気がする。福祉支援や地域情報化がますます社会に求められてくる今後、行政機関の役割はますます大きくなってくるのではないだろうか。

(長崎新聞「うず潮」8月掲載より)

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No.6  電子投票はじまる F0015 横山正人

先月、わが国で始めての電子投票が岡山県新見市の市長選・市議選で実施された。大きなトラブルもなく無事終了したようだ。有権者にも概ね好評だったらしい。不在者投票分は従来の方式を用いたこともあり、全ての開票まで2時間近く要したが、電子投票の開票は25分余りで完了したという。大変な様変わりである。

この電子投票、開票作業の効率化や疑問票がなくなるなど様々なメリットが考えられる。障害者の方々にも、これまで以上に投票の機会を与えることができそうである。しかし、電子投票の導入を本格的に検討しているのは、まだごく少数の自治体だけである。まだ多くの課題が山積している。その一つがコストの問題である。確かに開票等にかかわる職員の人件費は大幅に削減することが可能であろう。しかし、投票機の購入やレンタルに関わる経費が問題である。新見市の場合、採算度外視の金額で落札したが、いつまでもそうはいかない。電子投票を実施する自治体が大幅に増えれば安くなるだろうが、多くの自治体が電子投票に踏み出せないのもこのことが大きく影響している。自治体の財源が厳しくなる今後においては、大きな問題となろう。また、投票データはデータの改ざんを防ぐためオンラインで送るのではなく、電子記録媒体に保存され、それを開票所に運ぶことになる。搬送作業は従来と変わらない。今のインターネット時代にそぐわない風景である。自宅からインターネットで投票できる時代は、まだまだ先になりそうである。

我々投票する側にも、電子アレルギー解消という大きな課題がある。新見市の場合にも2ヶ月かけて模擬投票を実施し、有権者の6割が事前に電子投票を体験して選挙に臨んだそうだ。自分で候補者の名前を記入することに慣れ親しんできた市民がパネルに触るだけで投票することへの違和感はまだまだ多いと聞く。電子投票に限らず社会はますます電子化の時代に入ってきた。便利さだけの追求は好ましい事ではないが、新しい時代に順応する柔らかな頭も必要であろう。

(長崎新聞「うず潮」7月掲載より)

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No.5 ホタルから環境問題を F0015 横山正人

  「送りましょかよ送られましょかせめて藤棚の茶屋までも」と長崎甚句にも謡われた「蛍茶屋」という所がある。現在は電車の終点として喧騒の巷と化しているが、昔は長崎街道を旅立つ人々が、この蛍茶屋で別れの盃を交し別れを惜しんだという情緒あふれる場所である。その名のとおり、初夏にはホタルが飛び交う美しい場所だったのだろう。現在も近くの本河内御手水公園付近は、長崎市内でも有数のホタル棲息地である。 

世界に3千種以上棲息していると言われるホタル、日本書紀にも出てくるそうだから、日本人にとっては昔から思い入れの深い虫だったのだろう。暗闇の川辺で一筋光るホタル、古来より変わることなく見る人々に神秘的な光景を与え続けている。先日私も近くの現川にホタル観賞に出かけた。昨年より少なめだったが、相変わらずの美しい光を見せてくれた。しかし、子供の頃よく見かけたこの風景も次第に少なくなってきた。自然ながらの川辺が護岸工事があるたびにコンクリートで固められ、ホタルが棲息するにはあまりにも人工的な川岸が多くなってきた。

一方で、本来の自然を取り戻そうと、全国各地でホタルの里づくりが進められている。村おこしにホタルが貢献しているところさえある。福島県の北会津村のようにホタル条例を施行し、ホタルの採取を禁じているところもある。長崎市でもホタルマップを市役所ロビーやホームページなどで市民に公開している。改めて見ると以外にホタルの棲息地はこの長崎市周辺にも残っている。実はその背景で、ホタルを呼び戻す運動が各地で進められているのを忘れてはならないだろう。地域の方たちが中心となり、ホタルの幼虫やカワニナの放流、河川の清掃など様々な活動が進められている。子供たちに自然を残そう、ホタルから地域の環境を見直そう、そんな活動がこの長崎でも展開されているのである。子供たちがホタルから地域の環境問題を考える、まさに格好の教材にもなることだろう。いつまでも絶えることなく、神秘的な光を発し続けてほしいものである。

(長崎新聞「うず潮」6月掲載より)

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No.4  シニアネット長崎 F0015 横山正人

念願の「シニアネット長崎」の設立総会が、先月27日、長崎総合科学大学人間環境学部新校舎で開催された。昨年秋から年賀状作成などのIT講習会を試験的に開催するなど、半年間着々と準備を進めてこられた設立準備会の皆さんのおかげで、70名を越す正会員、サポート会員を迎えることができた。設立総会後も電話やメールでの問合せが相次いである。シニアの方々のITへの関心の高さを改めて実感している。このシニアネット長崎、正会員は50歳以上であれば入会の制約は何もない。インターネットなどの情報技術をこれから勉強したいと思われている方、これまでの経験やノウハウを提供したい方など様々である。さっそく5月からIT講習や会員相互の研修会が開催される。講習会に向けて、手作りの教材作成やアシスタントの勉強会もすでに始まった。

このシニアネット長崎、インターネットなどの情報技術を、シニアの方たちがお互いに教えたり教わったりと、とてもユニークな仕組みであるが、これだけが本来の目的ではない。インターネットなどの情報技術はあくまで手段である。少子高齢化が進行してくる今後、このシニアネットが情報技術を介して地域における学びの共同体、新たな文化的・人的交流の場として、さらには生きがいづくりの場として成長していくことを願っている。幸いにも、シニアの方たちには長年培ってきた豊富な知識や経験がある。この知識や経験を無駄にすることなく共有し、自ら楽しみながら社会参加をして地域に貢献できればと考えている。おそらく会員相互にいろんな自主的サークル活動や親睦活動が展開されることだろう。あわてず急がず長崎らしいシニアネットに成長していくことを切に願っている。近い将来にはNPO(民間非営利組織)の法人資格も取得する予定である。また、これを機会に同様な組織が県内各地に広がっていくことを期待している。シニアの皆さん、シニアの生きがいは自分たちで創ろうではありませんか。   (問合せ先TEL:095-838-5152 Email:yoko@cc.nias.ac.jp)

(長崎新聞「うず潮」5月掲載より)

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No.3 旧長崎水族館  F0015 横山正人

 長年にわたり市民に親しまれてきた網場の旧長崎水族館が閉館して4年が経過する。昔馴染みのペンギンたちも、新たに建設された長崎ペンギン水族館に居を移し、新しい住処で子供たちを連日楽しませている。

昭和35年、長崎国際文化都市建設法に基づき建設された旧長崎水族館は、戦後復興期の建築物として高い評価を受け、その独特の風格と存在感の中で長崎市民をはじめ来館者に親しまれ、閉館後もその保存を要望する声が建築関係者や長崎市民をはじめ広く各方面から寄せられてきた。閉館後、シーサイドキャンパスとして新たな所有者となった長崎総合科学大学でも、地域の要請に応えるため保存に向けた再生利用計画が検討され、昨年新たに発足した人間環境学部を中心とする新校舎として再生利用されることになった。この四月からいよいよ利用が開始される。旧長崎水族館の一部を保存し、残りを改築して建設された新校舎、新と旧の調和の中で新たな東長崎の文化的シンボルとして旧長崎水族館同様、長崎市民に親しまれる建物になればと願っている。

本学もこれまで地元企業との共同研究や各種講習会、市民講座の開催など積極的に地域への大学開放を推進してきた。しかし、高齢化社会の到来とともに、生涯学習や新たな文化に触れる機会を地域市民に広く提供していくことの役割は、ますます地方大学として重要な使命になっている。まさに地域とのバリアフリーが大学に求められている。この新校舎、文化施設の少ない東長崎にとっては、格好の場所になり得る可能性を秘めている。地域の方々が自由にキャンパスを訪れ、学生たちと世代間の壁を越えていっしょに学んだり、市民同士の語らいの場所になったりと、そんな自由な学びの場、コミュニティーの場として再生できればと願っている。幸いにも、人間環境学部の校舎となり、地域の環境教育の中心になり得る可能性もある。最新のIT設備も完備されている。今まさに、21世紀における地域共生型の新たなキャンパスづくりが開始されようとしている。

(長崎新聞「うず潮」4月掲載より)

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No.2 音声コミュニケーション F0015 横山正人

最近、大学の講義で学生の私語が少なくなった。喜んでいると、実は私語に代わって携帯電話のメール交換が増えただけだった。そんな笑い話にもならない困った話を時々耳にする。携帯電話の普及台数が一般電話を超え、特に電子メールの普及は若者を中心に爆発的な勢いで拡大しつつある。私も仕事上毎日何十通かのメールをパソコンで受取り、必要に応じて返事を書くという作業が日常的になっている。おかけで会議のため東京へ出張する回数も昔に比べて激減した。学生たちからも電子メールで相談を受けることが多くなってきた。確かに電子メールの効用は大きいのであるが、若者たちの携帯電話によるメール交換を見ていると、時々不安感を抱いてしまう。

それは日常生活における直接会話の減少である。音声は人間にとって最も簡便で有効なコミュニケーション手段であったはずが、人と言葉を交わすチャンスはあっても実際に会話にいたる場面が少なくなってきているのではないだろうか。フェイス・ツウ・フェイスの会話の衰退がいろんな場面で起こっているような気がする。満員の電車やバスから降りる時でさえ、一声かければすむのに体当たりなどの体を使った表現をする。道で顔をあわせても声を出して挨拶しない。まるで、音声を使ったコミュニケーションをおっくうがっているかのような行動をよく見かける。若者というよりむしろ現代人の傾向なのかも知れないが、若者たちのメール交換を見ていると、ますます音声コミュニケーションが損なわれているように思えてしょうがない。研究室へ訪ねてきた学生が用事があるにもかかわらず言葉が出ずしばらく無言でいることがある。就職試験の面接で上手く自分を表現できずに不合格になる学生も多々ある。日頃から音声コミュニケーションに慣れていない者にとっては、自分の意志や考えを即座に表現できなくなってしまうのであろう。電子メールもたしかに便利なコミュニケーションの道具ではある。しかし、あくまで補助的手段である。大いに声を出して音声コミュニケーションを楽しもうではありませんか。

(長崎新聞「うず潮」3月掲載より)

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No.1  手作り年賀状  F0015 横山正人

今年のお正月も沢山の方々から年賀状を頂いた。一人ひとりの顔を思い浮かべながら見る遠く離れた旧友や教え子達からの年賀状、私の元旦の楽しみの一つである。

この年賀状も、最近はパソコンで作成したものが圧倒的に増えてきた。かく言う私も長年パソコンで年賀状を作成している一人であるが、デジタルカメラから取り込んだ家族の写真や様々なイラスト入りのものなど、一昔前には考えられなかった実に見事なオリジナル年賀状を頂く機会が増えてきた。もちろん宛名書きも大半がワープロ印刷である。おそらく、日本中で最もパソコンを利用する機会が増えるのもこの時期であろう。若者だけでなく、中高年者層にもパソコン利用が浸透してきた成果の一つといえるだろう。

 一方で、時間をかけて彫られた版画デザインの年賀状や毛筆で書いた年賀状を頂く機会はめっきり少なくなった。書道や絵画などの創作に力量を持ち合わせず、毎年パソコンで年賀状を作成している私が言うのも変であるが、何か一抹の寂しさを感じているのもまた事実である。パソコンも版画も自分を表現する意味では同じ道具なのであるが、毎日コンピュータを仕事の道具として利用している私にとっても、まだまだ昔ながらの手作り、手書きといったものに心ひかれるものがある。では、パソコンによる年賀状は手作りとはいえないのだろうか。大げさにいえばパソコンによる年賀状作成も、人間とコンピュータの協働で行う知的創作作業の一つと言えるだろう。まさに手作りに他ならないのである。しかし、従来の道具が単に道具としての価値だけでなく、長い歴史の中で次第にその文化的価値観をも生み出してきたのと異なり、私も含めてまだまだコンピュータは単に便利な道具として捉えてしまいがちである。様々な生活の場面で有用な道具としてコンピュータと付き合うことになるであろう今後、人間とコンピュータの関係をもっと深い視点で捉えていくことが必要なのかも知れない。そこからITが私たち人間に何をもたらすのかが見えてくるような気がする。

(長崎新聞「うず潮」1月掲載より)

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