News Letter 86号

シニアネット長崎 Senior Net NAGASAKI        

2008.12.04発行

 

 

 

旅サロン・デジカメサロン合同第15回さるく会

11月27日(木)旅サロン・デジカメサロン合同「第15回さるく会」が開催されました。

今回は長崎市街の中島川に架かっている橋を一ノ瀬橋から鉄橋まで上流から下流に向かって一つ一つ渡って行くという大変ユニークな「さるく会」でした。

定刻の午前10時に蛍茶屋電停をスタート、第一の橋「一ノ瀬橋」に向かいました。
今回の参加者は22名、案内役はいつもの森草一郎さんでした。

そのあと、桜橋・はちまんばし・一の橋・中の橋・中島橋・紅葉橋・銭屋橋・阿弥陀橋・高麗橋の順に中島川に架かる橋を渡り、石橋として有名な西山川に架かる桃渓橋を渡ったあと、再び中島川に戻り、大井手橋・網笠橋・古町橋・一覧橋・すすき原橋・東新橋・魚市橋・眼鏡橋・袋橋・常盤橋・賑橋・萬橋・鉄橋を渡って、本日のゴールである浜町アーケード入り口に正午頃到着しました。

今回の昼食会は、袋橋のたもとにあるイタリアンレストラン「ピアチェーボレ」で行われました。
昼食会の席上、次回の「さるく会」は、1月22日(木)に東山手地区で行うことが決まりました。

集合場所の蛍茶屋電停前

 

ご挨拶

一ノ瀬橋 ( いちのせばし )

一ノ瀬橋は承応 2 年( 1653 )に唐通事頴川道隆が私財を投じて架けた石橋。

長崎街道から旅に出る人は、蛍茶屋で別れの盃を交し、一ノ瀬橋を渡った。

??橋?

国道34号線の下に架かるアーチ橋。
橋の名前を見つけることは出来なかった。

桜橋 ( さくらばし )

昭和59年3月竣工

はちまん橋

昭和57年1月竣工

一の橋 ( いちのはし )

国道34号線に架かる端。

中島川は南から北に流れている。

中の橋 ( なかのはし )

国道34号線に架かる橋。

中島川は180度方向転換して、北から南に流れている。

中島橋 ( なかしまばし )

紅葉橋 ( もみじばし )

昭和53年3月竣工。

名前の通り、紅葉が綺麗。

銭屋橋 ( ぜにやばし )

1660 年から 1684 年まで新大工町にあった貨幣の鋳造場(銭屋)から取られた。

阿弥陀橋 ( あみだばし )

この優美な石橋は、長崎の伊勢町と八幡町をつなぐために長崎の貿易商人園山善爾が私財を投じて 1690 年(元禄 3 年)に架けたもので、長さは13 . 4メートル、幅は4 . 5メートル。

高麗橋 ( こうらいばし )

高麗橋は、橋が新高麗町(後の伊勢町)にあったことから名付けられた。

承応元(1652)年に中島川上部の伊勢町に架橋されたのが最初。

桃渓橋 ( ももたにばし )

住民の困惑を見かねた僧卜意が 1679 年に架設させたものである。昭和57年に一部損壊したが、昭和60年に復元された。この橋と眼鏡橋、袋橋が本物の石橋である。

大井手橋 ( おおいでばし )

最初は1698年に架設された木橋で長崎ぶらぶら節に「大井手町の橋の上で・・・・」と歌われている橋です。 1911 年に石橋として架設されましたが、 1721 年崩壊し 1804 年再架設、昭和57年( 1982 年)流出、現在はコンクリート橋。

網笠橋 ( あみがさばし )

1699 年に架かった石橋も 1982 年(昭和 57 年)の大水害で流された後はコンクリートアーチにて再現された。

古町橋 ( ふるまちばし )

初代の石橋は 1697 年架設。 1721 年洪水で流出、何度か造り替えられ現在はコンクリートアーチ橋。

 

一覧橋 ( いちらんばし )

明暦 3 ( 1657 )年に高一覧が架橋。現在の橋は、昭和 61 ( 1986 )年に中国福州市産の花崗岩を使って復元したもの。

すすき原橋 ( すすきはらばし )

中島川の第 7 橋。最初、石造アーチ橋が延宝 9 年 (1681) に架けられたが ( 架設者不詳)、享保 6 年 (1721) 7月の洪水で流失した。昭和 57 年 7 月の洪水で流失した石橋は、この位置では 3 度目の石造アーチ橋で、文化元年 (1804) 長崎奉行所によって銀 12 貫目で架けられたものであった。この橋は、今紺屋町橋などと呼ばれたが、往時、この付近一帯は草が群生していたということにちなんで、明治 15 年にすすき原橋と命名された。

東新橋 ( ひがししんばし )

初代の石橋は 1673 年架設。 1721 年流出し 1800 年再架設。 1982( 昭和 57) 年の長崎大水害で流出、現在はコンクリートアーチ橋。

魚市橋 ( うおいちばし )

初めは石造アーチ橋として架けられたが、幾度となく洪水にあい、木橋、石造アーチ橋と変遷を繰り返し、現在は大正 14 年に架けられた鉄筋コンクリート造りの橋になっている。

名前は、昔付近に魚市場があったことにちなんだもの。

長崎港で獲れた新鮮な魚がこの橋を通って運ばれていたのだ。

眼鏡橋 ( めがねばし )

我国最古の石造アーチ橋。

1634年に興福寺唐僧黙子禅師(とうそうもくしぜんし)によって架設された。川面に写るその姿から「めがね橋」と親しまれてきた橋である。1960年に国の重要文化財に指定された。長崎の石橋のなかで本物の石橋はこの橋と桃渓橋と袋橋のみである。

袋橋 ( ふくろばし )

架設年月は不明、眼鏡橋についで古いとの説もある。たびたびの洪水にも流出を免れている。

常盤橋 ( ときわばし )

寛永年間( 1624 〜 1644 )に、本古川町と本紺屋町の間に木廊橋の古川町橋(本紺屋町橋)が架けられる。 1679 年 ( 延宝7 ) 崇福寺の大壇越であった魏之※(王遍に炎) ( ぎしえん ) の寄進によって石造りのアーチ石橋に架け替えられた。 1795 年 ( 寛政7 ) の大水害で流失し、 1803 年 ( 享和 3) 公費で再架橋された。これまでは「古川町橋」「第十二橋」と呼ばれていたが、 1882 年 ( 明治 15) に西道仙が「古川橋」と命名。 1912 年 ( 明治 45) 、本紺屋町、本古川町、西古川町、町民の寄付金で鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、橋名を「常盤橋」に改称。現在のものは 2001 年 ( 平成 13) に再架されたものである。

賑橋 ( にぎわいばし )

賑橋は江戸時代初めに木廊橋として架橋され、「榎津橋」または「第十三橋」と呼ばれた。 1666 年 ( 寛文 6) 崇福寺の大壇越であった何高材 ( がこうざい ) の寄進によって石橋に架けかえられたが、 1795 年 ( 寛政7 ) の大水害で流失、 1799 年 ( 寛政 11) 公費で再架橋された。 1901 年 ( 明治 34) フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられ時、付近に魚市場があり賑わっていたことと、榎津町と材木町との間に架かっていて、どちらの町も「木」偏が付いていて、二つの木 ( き ) が合う「にぎあう」ということで賑橋と改称されたと言われている。 1928 年 ( 昭和 3) 鉄筋コンクリート橋になり、現在の橋は 1990 年 ( 平成 2) に再架されたものである。

電車専用の橋

中島川の万屋町〜賑町間に架かる路面電車の軌道鉄橋は長崎電軌軌道 ( 株 ) によって架橋された。

 なお、現在のものは 1989 年 ( 平成元 ) に架けられた鉄橋である。

(この橋は渡っていません)

萬橋 ( よろずばし )

 萬橋は江戸時代、第十四橋と呼ばれ、萬屋町に架かっていたので「萬屋町橋」とも呼ばれが、 1882 年 ( 明治 15) に西道仙により「萬橋 ( 万橋 ) 」と命名される。萬橋は 1678 年 ( 延宝 6) 京都商人・金屋喜右衛門によって架設された石橋で、同年 (1678) の大雨で流されそうになり、橋にクサビを打ち込み流失を防いだことから「くさび橋」と呼ばれたこともある。中島川の一番下流の石橋である。 1797 年 ( 寛政 8) 大水害で流失。 1801 年 ( 享和元 ) 公費で階段付き石橋が再建された。 1915 年 ( 大正4 ) 鉄筋コンクリート橋になり、 1971 年 ( 昭和 46) 、 2002 年 ( 平成 14) 再架された。

鉄橋 ( くろがねばし )

1867 年 ( 慶応 3) の豪雨で橋が大破。それ以前も何度も水害被害を受け流失、大破していることから、堅牢なものにしようということで鉄橋の建設が決まった。

 長崎製鉄所へ発注され、鉄橋が造られた。設計はオランダ人技師ホーゲルがあたり、長崎製鉄所の頭取・本木昌造 ( 「近代印刷の祖」として知られる人物 ) の監督施工により、長さ 27.2m の鉄の桁を渡し、幅 6.5m 、板を張った橋で、欄干には黒く光る擬宝珠が飾られた鉄橋が 1868 年 ( 慶応 4)8 月に完成。

1931 年 ( 昭和 6) には鉄筋コンクリート製に架け替えられ、その後 1990 年(平成 2 )に再度架け替えられた。橋のそばには初代にあった石柱が残されている。

浜市アーケードは国道!!

昔はこの国道が茂木街道に続いていた。
春雨通りは、後から出来た市道。

イタリアンレストラン「ピアチェーボレ」

本日の昼食会の会場、袋橋のたもとのイタリアンレストラン「ピアチェーボレ」入り口。

食事会

食事会
前菜
肉料理
  

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